言葉を知るごとに自分を見失うように感じる

気に入らないことがあったとき、どうしてそれが気に入らないのかを考えてしまう。自分の感情に筋が通っていないと気持ち悪く感じるからだ。
自分の感情を理屈で整理していくのだが、整理し終えたときには元の感情を見失ってしまう。大抵の場合は感情が増幅されている。ちょっと嫌だな、ぐらいの些細な感情、地面に少し蹴つまずいたぐらいの感情が、いつのまにか擦り傷まみれの大怪我かのように変容してしまう。
感情なんてものは言葉にした瞬間嘘になる。
自分の内面がどうこう話したくなるのは山々だが、話しすぎると嘘になる。いや、そもそも話し始めた途端に嘘ではあるのだが、嘘に嘘を重ねることで完全に別物になってしまう。
そもそも自分のことを客観視することは不可能だ。自分の思考は自分の主観を軸に進められていく。どう足掻いたって客観視はできない。同様に、自分の感情を理路整然と話すこともできないはずだ。理屈じゃない、言葉で説明できないような主観が入り込んでしまう。そのはずだが、理屈が通っていないと他人を納得させることはできないから、人は共感してもらうため、理解してもらうために自分の感情に理屈を通してしまう。 
そしてこれは他人に限った話ではない。人は自分自身も納得させたい。自分は自分をいつまでも理解することができない。同じ肉体に2人の人間がいるかのようだ。言葉を知るごとに理性が大きくなって、自分を見失っていくように感じる。こんなときは思考をやめるしかない。日常のあれこれに励んでいると、そのようなことを忘れてしまう。
自分というものは、理解しようとすればするほど見失っていく。だから、理解しようとしなくていい。言葉で表現できずとも、自分は常にここにいるのだから、恐れることは何もない。

 

(2023年8月30日にnoteで投稿した文章です。)