八方美人でいたい私にSNSは向かない

のだと思う。

事なかれ主義というか、和を以て貴しと為す精神というか、私はその場が荒れるくらいなら一人を選んでしまうタイプだ。これが一つ。

もう一つ、私はとてもプライドが高いので他人に醜態を見せられない。

以上の2つから私はSNSに向いてないと思う。以上の2つをもって人は八方美人と呼ぶのだと思う。決して皆から好かれたいわけでもないが、現実としてそうなってる。実際には穏便に済ましたい&自分の恥部を見せたくないの2つ。どこまでも秘密主義だなと思う。情けない。

 

悩むだけ無駄よ~~~(天啓)

とりあえずこれからの方針

・期待に応えない

すなわちインターネットから離れるということにも繋がる。SNSをするとき期待に応えたいと思ってしまう。というのは(こうしたら喜んでくれるかな)とか、(こう書いたら分かりやすいかな)とか。どうしても考えてしまうから、そういうことから逃れる。

 

・偽オタクをやめる

私は全然オタクじゃないけど、なんとかオタクに寄せようとしていた。流行りのアニメ見たりそういうもの追ったりとかね。でもオタクじゃないので話は合わない。だから、そんなことしない。やめる。

 

・今年は勉強の一年

勉強です。色々な勉強。社会勉強も含む。

一昨年は新しいことを経験する一年、昨年は自由を謳歌する一年だったので、今年は勉強する一年にしようかなと思う。

 

常にマイノリティであれ、という言葉があるがその通りだと思う。今年は色々ガツガツやっていこうとしたけど、一旦それは先延ばし。来年やっていくのでよろしく。

 

2025年3月9日

3月9日といえばレミオロメンの曲が思い浮かぶ。瞳を~閉じれば~あなたの~♪

久しぶりに、だらだらと書いてといいんじゃないかと思う。最近こういうことしてなかったから。誰かに読ませるということよりも、自分の衝動が先にくるような、そんなひどい文章を書き連ねていきたい。

立ち止まるときはずっとこうだった。また始まった、という感覚もある。思えばこの2年は本当の意味では立ち止まっていなかったかもしれない。一度ゆっくり根底から考え直していきたい。2年を振り返りながら進んでいく。

 

この2年は怒涛のような退屈の日々だった。そうして生まれたものは苦し紛れの創作物だった。友人には評価される。全く手応えがない。その友人の方がもっとずっと良いものを作っているし、もっと評価されている。

特に去年一年はカスのモラトリアム人間だった。暇を持て余しても人は何もしない。大馬鹿者だ。何もしないことで得られる学びすら得ていない。死んでいるのと同じだった。

何かしてる感だけ、人並みにやってる感だけ、そういうことを主張した結果がこのザマ。辛い。何が辛いのか。多分、次の段階である就活において、何の価値もない人間であることが辛いんだと思う。

SNSは嫌いだ。あんなものはカスだ。自分を切り売りしている感覚に襲われる。共有したいという気持ちにさせられながらも、ろくに言いたいことも言えない。まあこういうブログならまだいい。言いたいことを言える。

さらには共有したいという気持ちが逸って、自分の中で収めておけばいいものも表に出してしまう。それに関して言えばこの文章だってそうだ。

共有したい、さらには「ログを残したい」という気持ちが自分をそうさせる。「インターネットにログを残すのは偉いこと」という思いがある。積み重ねた分だけ偉い、と。いつかお金になるかもしれないし。

こういう感覚が自分自身を希釈していくんだろうな~~~~と思うと苦しい。まあ自分なんてそんな立派なものじゃないからどうだっていいんですけど。

 

とかそういう問題でもないな。

自分が他人と比べて価値があろうが無かろうがそんなものはどうだってよくて、自分の見ているこの世界を動かすのは自分自身以外にありえないのだから、自分のことは大切にしなければいけない。そうじゃないとつまらない。画面が割れて見えなくなったゲームがつまらないように。

 

話が逸れて訳分からなくなってきた。

また立ち止まる。

 

中学生のころに「穴蔵」というブログを作ったり、fc2のホームページ作ったりしたなあ。あの頃と今、やってることは何も進歩してないわ。新しいことを始めなきゃダメだ。本当に。今そう思った。

 

なんかTwitter見てたら勉強もプログラミングもサークルもバイトも何でもやってるような友達がいて、本当に頭がくらくらしてきますよ。

自分は未だにブログを立てては潰してを繰り返しています。ネット躁鬱と呼んでください。

 

穴蔵っていうのは何でも書きたいことを書きなぐるというスタンスだった。今とあんまり変わらん。これって一種の自分なりのデトックスで、とにかく言葉にすることで流れ出していく何かがあると思う。

生きていく上では必要だけど、不必要。だってこんな文章いくら書いたって、文章力が上がる訳でもなし。自己中心的な営みに過ぎない。だからときに焦る。こんなことしてちゃダメだと。

 

違う!!

 

こんなことを、もっともっとするべきだった。

苦し紛れの創作物を好きと言ってくれる人もいるし、期待もしてくれるけど、そんなの、そんなSNS向けにあつらえたものは自分のものではない。他人の期待に応えようとして自分を見失った。違う、違う。やりたいことはそんなんじゃない。自由じゃない。いいねは毒だ。いいねの数だけ苦しい。本当にそう。貰ったときは嬉しいよ、もちろん。でも、そういう積み重ねが地獄に繋がっていく。

自分みたいに見せかけて、本当の自分じゃない毎日でした。誰かに見せることばかりを意識して、自分が消えていきました。

 

とりあえず、一回冷静になりたい。むむむ、これはネット躁鬱の症状ですね!?おくすりを差し上げましょう

 

おくすりは、ネット断ちです。すぐには出来ないかもしれないが、徐々に。ついでにリアルの人間関係も薄くします。インスタ見るのマジでだるいんでアンインストールします。

 

表現するって、ネットで生きていくのって本当に大変だなと思います。ぐんぴぃも炎上しましたし、多分ネットにいる人ってみんな漏れなく炎上して、病みます。すなわちネットにいる人はみんな病んでます。悲しい。

ミセスも昔から知ってるけど、「た」「す」「け」「て」の件はもう正直おかしくなってしまったんだと思う。そういう叩かれからの苦悩を乗り越えた米津玄師はもう私の目からは仙人のように映る。星野源は未だに苦しんでるから菩薩だと思う。

 

そんな覚悟、私にはまだ無い。これからも出来るかどうか分からない。だから、背伸びはしない。自分の出来ることをしていく。

っていうと成長しないんだよね……難しいところ。

 

一旦もろもろ切ってから考えてみるという作戦。hakaku垢以外ログアウトします

この世って強くてニューゲームらしい

だから年齢による「今始めても遅い」なんてものは存在しないらしいよ

何歳までにこれ~とかもあんまり考えなくていいらしい

なぜなら強くてニューゲームだから

今出来ることを出来るだけやった方がいい

常に最善を尽くせ!

 

ものづくりしか勝たん

こういうことなんだよね。

 

やっぱり私、将来はものをつくる仕事に就きたい。何より、やってる感すごい(?)。世界の幸せの総量が増える感じもすごい。生きてるって感じがする。

今年こそは色々作ります。頑張るぞ。

 

<アイデアと技術に関する話>

イデアって創作においてはめちゃくちゃ重要で、作品の魂だと思うんですよ。でもこれって枯れる気がするんですよね。一生良いメロディ書き続けるアーティストを私は知りません。似たような曲ばかりになるか、変な方向に進むかの二択。これはあくまで個人の感想なんですが。たまにはいい曲出すけどやっぱり打率下がったな~とかありますよね。ありません?

一方で技術ってずっと上がり続けるんです。拙い演奏だったバンドも年を経るごとにどんどん上手くなっていきます。歌も意外と劣化しません。音楽は体力面もあるのであれですが、美術芸術に関しては本当に右肩上がりだと思います。

何が言いたいって、最初のうちはアイデアだけで勝負できるかもしれないけど、技術を研鑽しないことにはそれは頭打ちになるぞ、という自戒です。

 

あとこれは本当に余談なんですけど、お笑いとかギャグ漫画とかずっと考えていると自分は頭がおかしくなりそうなんですよね。裏切りの裏切りの裏切り……みたいなよく分からないことになってくる。だからお笑いと真剣に向き合うにはお笑い以外とも向き合った方がいいと思います。お笑い抜きの何かと。

ストーリー漫画とかでメタ的なギャグが挟まると個人的にめちゃくちゃ冷めちゃうんですよね。そのぐらい笑いの力って強力だし怖い。メタ的なギャグって理想的な裏切りなんで面白いんですけど、本筋が軽薄になってしまうんです。お笑いに人生をかけるというのは、お笑いが軽薄になるか人生が軽薄になるかのどっちかに落ち着きそうなので、人生かけない方がいいです。真空ジェシカの川北さんはああ見えてちゃんと結婚しているので謎の安心感があります。個人的な感想。

2025年現在の自分なりの哲学

理屈も根拠もあったようなもんではない、エセ哲学ですが、私はなんとなくの直観や自分の言葉の(自分にとっての)腑に落ち具合を参考にしています。

自分に響く哲学以外は必要ないので、以下の言葉があなたにとっては全く腑に堕ちないものかもしれません。あくまで今の自分のために。

 

世界は理不尽で出来ている

世界の最小単位って何だろうなと思って。いわゆるアルケーって何なんだろうと。世界を一番細かくして現れるのは素粒子でしょう。でもそれは物質世界の話です。私は精神とか何やかんや含めた全ての世界で一番最後に残るものは何かと考えました。

理不尽です。ハイデガーは存在に神秘を感じていましたが、存在すら理不尽に包含されます。我々がこの世に存在すること自体が理不尽です。偶然とも言い換えられますが、自分的には理不尽という方がしっくりきます。言ってしまえばこれは神なのかもしれません。ただ自分的には何か超越した存在がいるというよりは、理不尽という概念が最初にあるような気がします。悪いことばかりじゃありません。偶然の幸せも理不尽によってもたらされます。当然逆もしかり。

親ガチャ地域ガチャという言葉がありますが、理不尽が原因です。学習能力や身体能力に差があるのも理不尽です。性差だって理不尽。理不尽まみれです。自分の足りないものばかり気にしてしまいますが、自分が持っているものもまた理不尽です。充足と不足が均等というわけでもありません。理不尽に充足している人間も不足している人間もいます。この理不尽をどれだけ平和的に解消できるかが社会が向き合わなければならない、永遠の課題なんだろうと思います。

 

愛と平和は対義語である

戦争って愛が爆発している状態じゃないですか。これよく分からないかもしれませんが。何も愛さない、何も守りたいものがない人は、原理的には戦争なんて起こさないと思うんです。実際には国家という、個人という存在が無視される組織が戦争を起こすので必ずしもそうとは言い切れないんですが。

皆が満ち足りている状態なら愛と平和は同時に成り立ちます。でも世界はそうじゃなくて、理不尽で溢れています。このとき個人を優先するなら愛に、他人=社会を優先するなら平和になります。だから私は「愛と平和で~」みたいな言葉を素直に信用することが出来ません。「愛を行使して(=戦争して)平和な社会へ」ならまだ分かります。

だから戦争というのはなかなか無くならないと思います。ただ、個人はともかく社会は常に平和的であるべきだと思うのは、自分の勝手な意見です。

 

「人生=悩むこと」である。また、悩んでいる状態が健全である

人生辛いこと多いじゃないですか。悩み事なんてたくさんあるじゃないですか。でもそれが人生だと思います。未来への選択肢なんて無数にあるんだから悩むことがたくさんあって当然です。というか、人生って悩むことなんです。これは励ましの言葉でもありますが、実際そうだと思います。世界は理不尽で出来ています。人間は個としてその理不尽に直面します。当然悩みます。悩むのが健全です。悩んでいない状態は逆に不健全です。

誰しも人生に答えがあったらそれにすがりたくなります。そういう脇の甘さにつけこむのが新興宗教だったり、過激な思想であったりします。そういうのに染まった人は安心感を得るとともに目がキマります。それって不健全です。最終的には地下鉄にサリンを撒くようになります。そうならないために、悩んでいる状態がベターと思った方がいいです、きっと。ここら辺は本当に個人の感想にすぎないのであまり鵜呑みにしないでください。好きなように生きて。。。

 

 

以上のことから私が言いたいのは「世の中なんにもわかんねえ!」ということです。

各々頑張って。

学問に興味が持てなくなるまでの思考

結局は怠惰の言い訳にすぎないけれど、怠惰を突き動かすような魅力を学問に対して感じなくなるまでの思考について綴っておく。現時点の自分の意見として。

 

学問と言うのは本質的にマウント合戦であると思う。こと文系学問においては。

理系の学問はそうでもないかもしれない。この世の絶対的な真理を数学の手法を用いて解き明かす、その営みに関しては他者は存在しない。

一方で文系の学問と言うのは基本的に他者が存在する。文系とでかく括るのは間違いかもしれない。歴史学や考古学、データを用いて計測する心理学などは私が本当に語りたいものとは異なるかもしれない。(完全に異なるとは思わないが)

だが私はどうしても社会学とか哲学とかに対しては、ある程度の「訝しさ」を感じてしまう。結局は自分が言いたいことを言うだけではないか。そしてそれを他人に論破されないように先行研究で補強するだけではないか。

読んだ本の数がマウントになる。知識で戦う。そしてその先で言うことは自分の意見。感想。もちろん自分の意見や感想の論理的な正しさを証明することは大切だ。だけど最終的にあるのが意見や感想なら、何を高尚ぶって学問然としているのかなと思う。

もう何を読んでもひろゆきが思い浮かぶようになった。「それってあなたの感想ですよね?」と脳内ひろゆきが語りかけてくる。世界の見方なんて人によって違う。精神世界にも社会にも、絶対の正解なんてない。皆が言いたいことを言う。ポジショントークと、それを補強するための知、それに伴うマウント合戦。

それが必要ないとは思わない。哲学者の言葉や社会学者の思想は、誰かの心の支えになるだろう。どこかの社会の思想の支えになるかもしれない。ならば、もっと優しい言葉を、と思う。結局私は学問の世界が怖いのである。どれだけマウントを取り合おうとも、その先にあるのが個人や社会の支えになるような、単なる個人の意見や感想であるならば、もっと優しい言葉で話し合ってもいいような気がするのである。

 

なんか怖いし、別に怖い意味もないと思うから、私は学問、大学から逃げ出したいです。みんな目が血走ってるから。理系の方が向いてたかもしれないけど、大変そうなので文系でいいです。根底にあるのは怠惰。

 

(でも哲学徒のツイートやnoteを見るのは意外と楽しいです。でも自分でやりたくはないです。誰かの言葉を鵜呑みにするだけで十分です。そこで頑張る理由って他者へのマウントだと思うから。そしてそれが学問の本質だと思う。ちょっと背伸びして頑張る、それが向いてないです。意味ないと思っちゃうから)