秋葉原を楽しめる全ての人に憧れる

先日秋葉原に行った。秋葉原を楽しめる人間になりたいと心から思った。

私は秋葉原という街に大変魅力を感じている。そのきっかけが、年末の秋葉原の人々を取り上げた2005年のNHKの番組だ。youtubeに無断転載されているものを見た。無断転載ではあるが、歴史的資料として誰しもが見られるように永遠にネットに残しておくべきとまで思うくらいその動画に感動してしまった。

その番組で取り上げられた人は、ひぐらしの作者の竜騎士07さん、とある一人の青年オタク、パソコンマニア、電子部品店の店長、メイドの5人。このバランスが素晴らしい。秋葉原はオタクの街であるとともに電気街でもある。消費するだけでなく、情報を共有したり作品を発表したりする場所でもある。背景の違う人々が秋葉原に集まる。皆が秋葉原に何かを求め、秋葉原はみんなの居場所として温かく機能している。

憧れる~~~~~~~!!!!!

 

でも、私は先日秋葉原に行ったとき、自分は秋葉原を楽しめる人にはなれないんだと思ってしまった。何かに熱中する人に憧れて、自分が秋葉原に行ったところで、私には何の目的もない。私はオタクではない。オタクになりたいと思ったことは幾度もある。最近はアニメも少しずつ見るようになってきた。でもいわゆる「オタク」にはなれない気がする。こんな気持ちでオタクになるのも、ましてや秋葉原に入ることすら失礼のように感じる。フィギュアとかアクリルスタンドとかいうものに興味がわかず、「推し」という概念もいまいち理解できない。やっぱり二次元の女の子は二次元でしかないという気持ちがわいてきてしまう。

バンド好きの私としては「ぼっち・ざ・ろっく」は受験期から見たかったアニメで、実際めちゃくちゃ良かった。でもいわゆる推し談義をすることは出来ない。感動して、曲も話もめちゃくちゃ良くて、2期があるなら絶対見ると思うが、「推し」なんていないし「推しカプ」なんてもっといない。ストーリーとして俯瞰して見てる、もしくはぼっちちゃんに感情移入して見ていただけで、熱い恋愛感情を個人に向けるような瞬間は私には訪れなかった。みんなそんなに「推し」っているの?

 

自分がズレているのか、周りが若干無理しているのか分からない。そう簡単に「推し」って出来るものなのか。そもそも推しってなんだ。二次元のキャラなんて割と皆似たような姿かたちじゃないのか。個人に対して「推し」という感情をもたらすものは一体何なんだ。どんどん不安になっていく。Vtuber見ていても「この絡み面白い」とか「この人面白い」とかあるけど、それは「推し」なのか、「推しカプ」なのか。もしそうだとしてもフィギュアやアクスタといったグッズを買うまでに至らない。一度買ってしまえば買いたくなるものなのか。自分は所有欲が人より少ないのかもしれない。缶バッジを透明なバッグにぎっしり詰める「痛バッグ」もなかなか理解できない。自分が消費という行動すら起こせない程受け身なのか。私はオタクの街秋葉原を楽しめない。

 

しかし秋葉原はオタクの街なだけではない。電気街でもある。コンデンサとかCPUとかがずらりと並んでる店で「どれがいいかな」みたいなことを自分もやってみたい。ちょっと暗い店内で「これはお宝だ」とか、店員に「どの部品がオススメか」とか言ってみたいのだ。でも出来ない。私には特に作りたいものもない。目的もなく工作する人はいない。何か目的がないとダメだ。

 

話は逸れるが、最近サークルで書いている絵にも何の目的もない。目的のない絵には心がこもらない。もっと自分の気持ちが惹かれる風景であったり印象であったり、一番自分が描きたいものを描こうとしないといけない気がする。

 

秋葉原はただふらふらする場所じゃない。そんな気持ちで行ったところで秋葉原に楽しさは見出せなかった。何か目的を持ちたい。なりたい自分ばかりいて、やりたいことがない。ここ5,6年の課題である。